過去の脱北船事例その2「ズ・ダン号事件」

今回の脱北者に対し「一時庇護のため」の上陸許可が出された。
その一方で、彼らの背景についても報じられている。

脱北者に一時庇護上陸許可=韓国に移送へ-テレビやゲームして過ごす

 石川県・能登半島沖で保護された脱北者9人について、入管当局は16日、入管難民法に基づく一時庇護(ひご)のための上陸を許可した。近く韓国に移送される。

 藤村修官房長官は同日午後の記者会見で、「迅速かつ適切に対応したい」と述べた。

 一時庇護のための上陸許可は、外国からの難民などに適用され、在留資格がなくても上陸を認める特例措置。入管当局は脱北の経緯などについて審査し、人道的な観点から判断したとみられる。在留が認められた期間は1カ月。

脱北者“北朝鮮では未来ない”

石川県輪島市の沖合で小型の木造船に乗って見つかった男女9人の脱北者は、14日、日本への仮の上陸が認められ、近く韓国へ向けて移送される見通しです。海上保安庁や入国管理局は9人らから事情を聞いて、脱北の経緯を調べていますが、男女らは、「韓国などほかの国では電気がいつでも使えるなど、より豊かで自由な生活が出来ると国内の市場などで聞いた。北朝鮮では、未来が見えないと思った」という内容の説明をしていることが分かりました。また、9人のうち責任者と名乗る男性はこれまで、「軍の資金を獲得するために働いている漁師だ」と話していますが、男女らは、「生活に苦しむ農村の国民などに比べ、金は持っているが脱出しようと思った」とも話しているということです。9人の中には、真っ白なTシャツを来ている人がいるなど比較的身なりがよいことなどからも、海上保安庁などは深刻な生活の苦しさよりは、他の国に憧れてより豊かな暮らしを目指して脱北を試みた可能性もあるとみて経緯を調べています。

「裕福」なはずの漁師、なぜ決死の脱北? 背景に軍の呪縛と腐敗

 国内でも海産物は貴重なタンパク源として、高値で取引される。漁師側も漁獲量を全て報告せず、一部を闇市場に流し、現金を蓄えてきた。「北朝鮮で内陸部の住民より漁師は豊かとされた」(加藤理事長)

 それでも脱北を決めた一家。脱北者男性は入国管理局に「軍に納める金額が高く、年々生活が苦しくなってきた」と理由を語った。

 石丸氏は「経済難から軍に対し、独立採算で自活しろという圧力が強まり、上納のノルマが上がっている」と説明する。



「反乱」や「海賊行為」をともなった「平新艇事件」と事情が少し異なる、こうした脱北船の始まりは87年の「ズ・ダン号事件」が始まりと言えるかもしれない。

船の大きさは異なるものの、脱北者の動機や海保の対応など今回の事件との共通点も多い。

当時の報道から当時の様子を見ていこう。

1987年1月23日 朝日新聞
北朝鮮漁船が福井へ密入国 未成年者含む11人

 福井県坂井郡三国町の福井新港に、未成年者4人を含む男女11人が乗った朝鮮民主主義人民共和国の清津直轄市の漁船型鋼船・清津号=約50トン、キム・マンチョル船長(47)=が密入国した事件があり、敦賀海上保安部は、22日夕方、航海に必要な食糧などの援助、機関の修理を終えたうえで出港を認める方針を明らかにした。この理由について、第8管区海上保安本部(舞鶴)と同海上保安部は、キム船長らが、希望する行き先を具体的に挙げておらず、福井新港への入港は船の故障と食糧援助を求める緊急避難、としている。

ただ、この記事では、北朝鮮漁船がいきなり福井新港で発見されたかのように書かれているが、事実は少し異なる。

海上保安事件の研究 第7回(捜査研究No.648 2005.7)では以下の様に説明されている。

 昭和62年(1987年)1月20日の18時ごろ、福井港において荒天避泊のため錨泊中の貨物船K丸の船長から、北朝鮮籍らしい船が本線に横付けし、朝鮮語で水・食料の援助を求めている旨の通報を海上保安庁が受けた。ただちに敦賀海上保安部、三国海上保安署の巡視船艇により調査した結果、この船は北朝鮮籍の漁業取締船「ZU-DAN9082号(以下Z号と略)」(総トン数50トン)で医師でもある船長K(46歳)等、全部で11名(未成年者4名を含む)が乗船しており、水や食料の援助を求めていることが判明した。しかし乗員全員が有効な旅券または乗員手帳を所持していなかったので、出入国管理及び難民認定法違反の疑いもあり、必要な援助を与えたまま事情聴取のため、巡視船により同船を曳航して敦賀港に回航した。

そして事情聴取の結果、彼らが「南の暖かい国」に行くために北朝鮮から脱出したことが判明する。その途中で2基あるエンジンのうち1基が故障。漂流してたどり着いた先が福井新港だったというわけである。そこで海上保安庁は不法入国容疑での捜査を打ち切り、関係各所に連絡するとともに必要な援助と保護を与えるため彼らを巡視船で安全確保することとなった。

 一方、問題となったのは、彼らの希望する「南の暖かい国」がどこを指しているのか、ということである。外務省の担当者も含めた事情聴取では「韓国に行ってもよい」とする者もいれば、残された親族を心配し「韓国に行けばどうなるのかわからないので、韓国だけは嫌だ」という者もおり、一行で統一された行先が決まっているわけではなかった。

 そしてこの時からすでに、事態の複雑化が予想された。問題は4年前にさかのぼる。脱走した兵士を知らぬうちに北朝鮮から日本に連れてきてしまった第18富士山丸が、再び北朝鮮を訪れた際に手に乗員もろとも抑留されたのだ。密出国した脱走兵が、日本で亡命の意思を示したため通常の密入国者として送還の処理ができなくなったことが背景にあった。北朝鮮は日朝貿易に従事していた第18富士山丸による送還を希望していたが、それが実現できなくなり、海上保安庁などが出港に際して懸念を示していたものの、船長らは朝鮮総連からの保証があることを理由に北朝鮮へ入港。そのまま逮捕されてしまったわけである。今回、再び亡命ということで送還しなければ、抑留された彼らの帰国が遠のくのみならず、扱いも悪くなりかねない懸念があった。

 そして、入港翌日には北朝鮮からの圧力が海上保安庁を襲い始めたのである。

1987年1月30日 朝日新聞
渦巻く南北の宣伝合戦 動きとれぬ漂着北朝鮮船

入港翌日には、早くも北朝鮮側が動いた。朝鮮総連福井県本部は「単なる事故」として21日から敦賀海保への働きかけを続け、「乗員早期返還」を要求。北朝鮮政府も23日には朝鮮交通委員会海運総局の声明などで「(北朝鮮の)元山へ家族や親せきに会いに行く途中、エンジン故障で漂流した」と主張。「人道的見地から、船と乗員全員を直ちに清津港へ送り返すよう」求めた。

当然ながら韓国や民団も黙ってはいない。

 一方、韓国居留民団は「明らかに亡命」と受け止め、「南の国」は韓国を指す、としてキム船長らの行動を歓迎。韓国政府も24、26日の両日、崔コウ洙外相^が御巫駐韓日本大使を呼び、「人道的考慮、国際慣行に基づき、早急に満足のいく解決が図られるように」と要望した。

洋上であわや「衝突」という事態まで起きた。

現地の敦賀では、25日北朝鮮の国旗を手にした約60人が敦賀海上保安部前で、「送り返せ」と大声でこぶしをつき上げ、ほとんど連日、数十人が気勢を上げている。総連側は記者会見し「亡命の意思が少しでもあれば到着時に意思表明しているはず。日本がキム船長に洗脳工作をしている」と対日非難のトーンを強めている。一方、民団の人たちも連日のように「歓迎」などと書いたプラカードや横断幕を持ち、チャーターした船で「ズ・ダン」周辺で「歓迎パレード」。ついには民団系の「歓迎船」3隻と、総連系の「早期送還」を求める船5隻が異常接近する事態も起きている。

この時の警備の様子がのちに海上保安新聞(第2398号平成10年4月23日, 海上保安庁創設50周年企画 あのころあのとき)に掲載された。当時の苦労をこう語る。

千トン型巡視船である『わかさ』を沖合に錨泊させ、Z号をそれに横付けしたが、抗議団体がプレジャーボートなどでやってきて亡命者が船外に顔を出すと、拡声器で強烈に非難を浴びせる。大型巡視船で挟んで接近させないようにする警備が大変でした。


そして国内政治まで蠢きはじめる。韓国との関係を重視する自民党と北朝鮮との友好を目指す社会党もそれぞれ圧力を加え始めたのである。

一方、韓国政府は事情を考慮し直接の入国を求めない方針であると報じられた。つまり、第三国を経由するのである。

1987年1月31日 朝日新聞
外務省が漂着した北朝鮮船の受け入れ先捜しへ

 外務省は30日、福井県に漂着した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の資源保護監督船ズ・ダンの乗船員11人について、日本、北朝鮮、韓国以外の第三国に渡航させる方針を固め、受け入れ先との非公式な打診を始めることにした。同省幹部は30日、「渡航先と想定できる所が旧正月休みに入っている」と述べ、台湾、香港などが念頭にあることを示唆した。第三国に渡航させる方針を固めたのは、韓国が引き渡しを求めない態度を表明したのに加えて、11人の意思確認作業の中で、(1)北朝鮮へは戻らない(2)日本にとどまる意思もない、などの点がはっきりしたためだ。

そして台湾が名乗りを上げた。

1987年2月5日 朝日新聞
台湾、ズ・ダンの通過寄港認める反応

 政府筋は4日、福井県敦賀港に停泊中の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の船ズ・ダンの乗船員11人の受け入れ先として打診していた台湾から、民間ルートを通じて(1)11人の意思が一致すればトランジット(通過寄港)は認める(2)11人の定住は受け入れにくい、との反応が伝えられてきたことを明らかにした。しかし、政府としては、乗船員の最終的な定住先が確定しないままの出航は人道的見地からもさせられないとの立場から、定住を認める国を探すため、東南アジア諸国を中心に打診を続けていく方針だ。

こうなると、残された問題はどうやって彼らを台湾まで移送するか、ということだった。

もちろん白羽の矢が立ったのは彼らを保護している海上保安庁である。

1987年2月7日 朝日新聞
ズ・ダン乗組員、敦賀港を出発 今夜、空路で台湾へ

 政府は7日午前、福井県・敦賀港に停泊中の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型船ズ・ダンの乗組員11人を同日夜、海上保安庁機で台湾に向かわせる方針を固め、その準備に入った。同日昼までに乗組員は海上保安庁の巡視船で敦賀港を出たという。これは11人が、最終的に台湾に一時滞在の形で行くことを了承したためと見られる。

渡航方法としては、安全を図る立場から海上保安庁機を使い、航空管制面でも防衛庁の支援を求める方針だ。

そしてヘリ搭載巡視船と航空機を保有する海保ならではの「作戦」が実行されたのである。その時の様子を朝日新聞が克明に記している。

1987年2月8日 朝日新聞
緊張の「ズ・ダン」隠密出国作戦

○敦賀
 「ズ・ダン」が停泊していたのは敦賀港の検疫錨(びょう)地。沖合2.7キロの海上。巡視船と巡視艇に両側をがっちり固められていた。
 最初の動きが現れたのは7日午前3時5分。巡視艇「すいせん」が岸を離れ、「ズ・ダン」に横づけして11人を収容している巡視船「わかさ」へ向かった。午前3時45分、それまでこうこうと明かりをつけていた「わかさ」が一瞬のうちにやみに包まれた。「わかさ」の反対側から「ズ・ダン」をはさんでいた巡視艇のキャビンライトがついた。6日夕まで1隻だった巡視艇は2隻に増え、「ズ・ダン」の両側は「わかさ」を含めて4隻の巡視船艇で固められていた。
 一行は、「わかさ」が明かりを消した後、鹿児島からやってきた巡視船「おおすみ」に乗り移ったらしい。
 「おおすみ」はヘリコプターを搭載している。午前5時25分、第8管区海上保安本部の大型ヘリが美保航空基地を飛び立って「おおすみ」に向かった。「おおすみ」船上からまず第1陣が搭載ヘリで脱出、続いて大型ヘリも「おおすみ」から残りの人々を乗せた。
 この間、敦賀港内では別の場所にいた巡視船艇がエンジンをかけて移動したり、止まったりの奇妙な行動が繰り返された。
 敦賀港周辺を含めた敦賀市内には「ズ・ダン」が来航して以来、北朝鮮、韓国の在日団体の人々が連日詰めかけ、港、湾の周辺を連日警戒していた。巡視艇の動きはこれらの人々の目を引きつけるための陽動作戦だったのか。

手段としては今回の脱北者の長崎移送と同様にPLHから搭載ヘリで空港へ、そこで固定翼機
に移乗するという流れである。異なるのはその行き先が「台湾」であること、そして、作戦全体を隠匿する必要があったことである。この「隠密行動」「陽動作戦」によって、一行がすでに敦賀を後にしたことを知らなかった人もいたとのことだ。

 しかし、韓国政府が台湾政府と裏で交渉し説得していたこともあってか、韓国メディアは「もう敦賀は終わった。台湾へ飛ぶ」とコメントして姿を消したという。

○境港
 2機のヘリコプターは午前7時40分、8時すぎ、相次いで米子空港に併設されている第8管区海上保安本部美保航空基地に着いた。極秘扱いで、昼すぎになっても、問い合わせに対し美保航空基地側は「11人がこちらに来るとは、一切聞いておりません」。
 だが、海上保安庁のマークのついたYS11機が、格納庫わきに隠れるように止まっていた。11人を運ぶため、前日、那覇から羽田に移動、さらにこの朝7時10分、到着したものだ。
 航空基地のゲートはふだん、比較的自由に出入りできるが、この日は報道陣をシャットアウト。海上保安部の建物の窓はカーテンやブラインドが下ろされたまま。併設されている自衛隊美保基地のジープがランプを点滅させてパトロールする。
 午後3時すぎ、整備員約10人が同機の整備を始めた。間もなく離陸態勢へ。基地東端の自衛隊管制塔近くまでゆっくり進んで止まると、航空基地建物前に止めてあった4台の乗用車が同機に向かってフルスピードで走り出した。管制塔の向こう側で、11人は同機に乗り移ったらしい。管制塔の陰から再び姿を見せ、同機が離陸したのは3時半すぎだった。

○舞鶴
 「出国したのかどうか」--7日午前11時ごろ、第8管区海上保安本部(舞鶴市)の土屋彬本部長は何を聞かれても「海上保安庁の厳命で、一切答えられません。わかってほしい」の一点張り。「ズ・ダン」の乗船員11人の敦賀での動静についても「ノーコメントです」。午後からは「所用がある」と、行き先も明かさず外出してしまった。

口が堅いのは東京の外務省や海上保安庁本庁も同様だった。そうした「だんまり」のなかでも心配している様子がうかがえたという。特に気にかけていたのは北朝鮮や中国による妨害である。防衛庁による管制支援の理由もそこにあった。

○那覇
 YS11機は午後8時57分、那覇空港に着いた。海上保安本部職員ら約30人が走り寄り、ロープで機体のまわりを取り囲んだ。
 燃料補給車が到着、給油を開始。非常脱出口が開かれ、乗員の交代が行われた。沖縄地区税関の係員5人も機内へ。すべての窓には白いカーテンが下ろされ、中は見えない。搭乗口は閉ざされたまま。整備員がはしごを持ってエンジンなどの点検を繰り返した。
 30分後、税関職員が機内から出てきた。「出国手続きですか」の質問に軽くうなずくだけ。同本部職員らも乗船員の健康状態、機内の様子については無言のままだ。
 着陸から1時間後、2つのエンジンが回り始めた。午後10時すぎ、YS11機は那覇空港を離陸、高度4000メートルの計器飛行で台湾・台北国際空港までの飛行許可を受けて飛び立った。

その後、無事海保のYS-11は台湾・台北空港に到着、一行が入国を果たすことになったのだが、公式な外交関係がない台湾に海上保安庁航空機という政府公用機が着陸したということで、中国までもこの問題に引き込むこととなった。

ズ・ダン乗船員、海保機で台湾到着 外務省の高官同乗

 台湾に向かった朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の資源保護監督船「ズ・ダン」のキム・マンチョル医師(47)ら乗船員11人は、空路で沖縄・那覇空港を経て、8日午前零時25分(日本時間)台湾の台北空港に着き、台湾当局に引き渡された。11人は鳥取県境港市の海上保安庁・美保航空基地から同庁のYS11機に乗り込み、外務省の谷野アジア局審議官(前韓国公使)ら職員2人が同行した。「ズ・ダン」事件は先月20日に福井県福井新港に漂着して以来、19日ぶりに政府機を外交関係のない台湾に外務省幹部とともに飛ばすという異例の手段で一応決着したが、北朝鮮側が直ちに反発したのをはじめ、中国も遺憾の意を表明、今後尾を引きそうだ。
 11人の乗船員の台湾移送は朝鮮半島の南北対立や中国と台湾関係など日本を取り巻く複雑なアジア情勢を反映して、厳戒の中で極秘裏に行われた。一行は7日未明、ズ・ダンを下船して、巡視船に乗り移り、ヘリコプターで美保基地に到着。午後3時半すぎ同基地を飛び立ち、台湾に向かった。途中、給油などのため、那覇空港に寄った。
 民間航空機ではなく、海上保安庁機という政府機を使ったのは「一行の安全を確保するため」(外務省筋)とされる。また、日中国交回復以来外交関係の途絶えている台湾に政府機を飛ばしたことについて、外務省筋は「緊急の人道的措置で、台湾との関係が従来と変わるものではない」と説明している。また、谷野審議官ら2人の外務省職員は台北空港で“入国”はしないまま、引き返すという。

海上保安庁自身もこの時の様子を明らかにした。

海上保安庁、「ズ・ダン」乗船員の移送経路を明かす

 朝鮮民主主義人民共和国の「ズ・ダン」の11人は8日午前零時25分(日本時間)、海上保安庁のYS11機で台湾の台北空港に到着したが、同日未明、海上保安庁は日本から台湾への“隠密亡命行”の経過を明らかにした。
 それによると、先月20日、福井県・福井新港に漂着した一行は、その後敦賀港に移り、21日から、舞鶴海上保安部所属の巡視船「わかさ」の船内で保護されていた。外務省が亡命先を打診していたが、台湾と決まり、7日午前3時45分、「わかさ」から巡視艇「こまゆき」に乗り移り、同午前6時、若狭湾沖で待機中のヘリコプター搭載の大型巡視船「おおすみ」に移乗。その後、ヘリコプター2機で、同日午前8時10分、鳥取県境港市の米子空港内にある海上保安庁の美保航空基地に到着した。同基地で休養をとった後、同日午後3時35分、YS11機でいったん沖縄に向かい、同9時に那覇空港に着いた。ここでYS11機の乗員が交代し、燃料補給をしたほか、11人の出国手続きも済ませ、同10時8分、同空港を出発、台北空港には日本時間で8日午前零時25分に到着した。
 YS11機には乗員7人と亡命した11人のほか、外務省の担当者2人が同乗した。美保基地から那覇空港までは、直線コースなら3時間もあれば着くが、5時間半もの飛行となった。海上保安庁は「敦賀ではズ・ダンに対していろいろな政治行動があった。それを避けることもあって、那覇での陸上滞在時間をできるだけ少なくするため、直線コースを飛ばず、途中で時間調整をした」と話している。
 今回の台湾亡命について、外務省から海上保安庁に同庁所有機の利用依頼の打診があったのは6日午後9時ごろだった。国交のない台湾への人員輸送はきわめて異例な措置であるため、海上保安庁は慎重に検討していたが、6日午後11時ごろ、橋本運輸相が了承することを決断。直ちに具体的な行動に移った。台湾への飛行に当たっては、万一の事態に備え、防衛庁に航空管制レーダーでの監視と支援態勢を求めた。

海上保安事件の研究では前述の海保新聞から再び引用している。

 当時、海上保安庁那覇航空基地の飛行長で、亡命家族11名を台湾まで空輸したF氏は、この間の事情を次のように語っている。「2月6日午後6時、本庁運用司令室長から『飛行長、台湾まで飛べるか』と電話がありました。『すぐには無理です。台北空港の情報がありません』と答えると、『例の件で飛んでもらうことになる。用意してくれ。他言無用』で電話が切れました。民間航空会社からの情報収集に当たったら、『何事ですか』と聞かれ、返答するのに苦労しました。輸送に当たったYS機は他の任務で羽田におり、2月7日午前4時35分に羽田を発ち、7時15分美保に到着しました。美保から鹿児島に行くことにしてあり、到着寸前に那覇に変更する作戦だった。台湾は、民間機の離着陸がなくなる午後10時過ぎに来るようにということであり、那覇での駐機時間が長くなるので2時間どこかで時間を潰せとの指示が出されていたので、YS機は都井岬の南でグルグル回って午後9時那覇に到着しました。台北の空港では、管制官との通信も順調でレーダーで誘導してくれました。午前零時25分の到着です。引き渡し手続きも順調にいって、20分後には出発しました。運んできた子供たちが手を振りながら闇に消えて行ったのが印象的でした。

こうして無事、台湾への届けられた一行だが、その後、ほとぼりが冷めたころに韓国にひっそりと移住することを期待していた日本にとって驚きの展開となった。

即日、韓国へ移送されたのである。

1987年2月9日 朝日新聞
ズ・ダン乗船員、台湾から即日韓国へ移送 外務省に強い衝撃

 8日未明に日本から台湾に移送されたばかりの朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型船ズ・ダンのキム・マンチョル医師(46)ら乗船員11人は同日夜、台湾から空路ソウルへ移った。11人のほとんどが日本から直接韓国に行く意思を明らかにしていたことから、外務省は「一定の期間を置いてから韓国へ定住のため移る」と見ていたが、台湾移送からまる1日もたたぬうちの移動だけに「こうしたタイミングで動くとは予想外」と衝撃を隠していない。とくに一行の台湾移送に対し、北朝鮮が「台湾経由で南朝鮮に送ろうとする非人道的で政治的な謀略行為」との認識を示し、抑留中の日本人船員2人の処遇をからめると強く反発していたところから、日朝関係に深刻な影響を与えるのは避けられないとみて、北朝鮮側の出方を憂慮している。
      
 韓国が11人を受け入れることについては、同日夜、一行が韓国に到着する3時間ほど前に日本政府にも連絡があった。外務省は表向き「韓国行きは台湾当局、乗船員一行、それに韓国の相談で決まった」との姿勢をとっているが、この連絡の直後から韓国と国際電話が直結しているオペレーションルームに幹部や担当者が集まり、事実関係の把握に努める一方、対応策を協議した。柳谷事務次官も同夜になって都内の結婚式場からタキシード姿のまま駆けつけたほどで、同日未明、台湾への一行の移送を終え、19日ぶりに一段落させたとしていた同省だけに「予想を超えた展開」(政府筋)にショックは大きい。

そして外務省と同様に法務省も驚いていた。

1987年2月9日 朝日新聞
ズ・ダン乗船員の即日韓国移送、法務省も驚き

 法務省幹部は8日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の資源保護監督船ズ・ダンの乗船員11人がソウルに到着したことについて「いずれは韓国に行くという見通しはあったものの、こんなに早いとは思わず、意外だ」と驚いている。
 同幹部は「とくに11人のうち船長の義理の弟2人は『宣伝に利用され、その結果本国にいる親族が政府によって迫害される』として韓国へ行くのに難色を示していたと聞いていた」と語った。法務省は出入国を管理する立場から、台湾へ向かうさいの日本への一時上陸や出国に際して、外務省とともに一行の意思確認に当たっていた。

この韓国行きには、韓国政府が台湾政府と調整していたのはもちろん、在日本韓国領事らによる説得があった。

脱出は数年前から考えていた 亡命のズ・ダン乗船員が記者会見

最初は「暖かい南の国」に行って自由に生きたいと思っていた。ところが日本に行っても、11人どこに行くのかばく然とした状況だった。しかし南の領事と会い、その時から南に対する考えが変わり、南に行かなければならないと考えた。北では、南について「独裁政権の支配する暗たんとした軍事政権」「貧民くつの多い生き地獄」などと宣伝していた。南の領事と会い、一族と協議した結果、台湾に行った後、南に行くことにした。南の大使館の人たちが物心両面で助けてくれ、同胞愛が私たちを包んでくれた。南の人民が心から私たちを受け入れたもので、その誠意が私たちを南に来させた。

当然ながら、これに対し北朝鮮そして朝鮮総連は激しく反応した。

ズ・ダン乗員亡命で朝鮮総連が抗議声明

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型船ズ・ダンの乗員11人が台湾から韓国へ移送されたことについて、在日朝鮮総連の朴在魯副議長は9日午前、東京都千代田区富士見2丁目の同総連中央本部で記者会見し、「日本当局のこのような野蛮的措置に対し、こみ上げる民族的怒りをもって断固抗議、糾弾する」などとする同総連中央常任委員会の声明を読み上げた。

そして、この声明に呼応するかのように国内メディア、政党からも批判の声が上がった。

1987年2月10日 朝日新聞社説
ズ・ダン事件で何を学ぶか

 ズ・ダン乗船者リーダー格の金満鉄氏はソウルの記者会見で、名古屋駐在韓国領事に会って考えが変わり、韓国行きに傾いたと語った。これが事実なら、一行の滞日中に行われた外部の働きかけが、韓国亡命の決め手になったわけだ。せめてわが国を離れる前に、北朝鮮へ帰る意向の有無を北側関係者の前で確認する手だては尽くせなかったか。

ズ・ダン乗組員の韓国移送は政府の画策 社党が外務省に抗議

 社会党朝鮮問題対策特別委員会の安井吉典委員長らは9日午後、外務省で倉成外相、藤田アジア局長らと会い、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型船ズ・ダンの乗船員11人が台湾経由で韓国に移送された問題について(1)日本政府がとった措置は乗船員を韓国へ送ることを策したもので日朝関係を悪化させ、日中関係にも問題を残す(2)外務省は乗船員の意思とは関係ない韓国政府代表を面会させ、韓国行きを誘導したことは「最初に結論ありき」の極めて不当なやり方だ、などと抗議した。

社会党がこうした態度に出るのは、これも当たり前と言えば当たり前なのだが、親北派の議員は社会党だけにいるのではなかった。

1987年2月11日 朝日新聞
自民党部会で政府を批判 ズ・ダン問題処理

 10日の自民党外交部会(最上進部会長)で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型船ズ・ダン乗船員11人の即日韓国転送問題が取り上げられ、日朝友好促進議員連盟(超党派)所属議員から「日本政府が乗船員を誘導して台湾に行かせたのではないか。日朝関係がぶちこわしになった」など、政府の措置に対する批判が出た。
 出席者によると、部会では同議連の谷洋一会長代理が発言を求め「乗船員は最初、韓国に行きたくないと言っていると政府から説明があった」として政府が一行を説得したのではないかと追及。さらに「わずか20時間の台湾滞在で韓国に行ったのは日本、台湾、韓国の間で初めから仕組まれていた話ではないか」とただした。


だが、この事件や相次いだ工作員による爆破テロによって、このころから北に好意的だった日本の世論は薄れ始めた。もっとも拉致事件が広く知られるようになり政府が本腰を入れて調査を始めるのにはまだ時間が必要だったのだが。

一方、そうした北朝鮮の方を持つのとは別に、政権内からも外務省のやり方を批判する声も上がった。簡単に言ってしまえば、最初から韓国に移送すればよかったじゃないか、というわけである。

1987年2月10日 朝日新聞
ズ・ダン号事件、問題の処理方法で閣僚の批判相次ぐ

 田村通産相は10日の閣議後の記者会見で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型船ズ・ダン問題の処理をめぐり「稚拙なやり方ではなかったか」と、倉成外相に注意を喚起したことを明らかにした。
 同相によると、乗船員がただちに韓国に移されたことは不自然で、国民や第三国に不信感を抱かせたことから「世間に見え見えのような感じを与える。熟慮してほしかった」と、閣議後に外相に伝えた。
 これに続き橋本運輸相も、海上保安庁の飛行機を使ったことに関して「被害者は運輸省だ」と声をかけたが、外相は軽く頭を下げただけで返事はしなかったという。
 遠藤法相は10日の記者会見で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型船ズ・ダン乗船員が台湾から韓国に転送されたことについて、「即日転送については韓国側から要請があったと想像されるが、その日のうちに韓国に行くなら、台湾への移送というややこしいことをする必要はなかった」と批判した。

外務省と外相がフルボッコ状態である。

そして北朝鮮はついに報復とも取れる行為に出た。

1987年2月17日 朝日新聞
ズ・ダン事件で北朝鮮が警告 日朝議連に非難文書

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の小型船ズ・ダンの乗船員の台湾経由の韓国亡命に絡んで、日朝友好促進議員連盟(会長=久野忠治・自民党代議士)に対し北朝鮮側から「事件から生じる問題について日本政府が全面的な責任を負うことになると警告する。朝日関係は(日朝議連の初訪朝で日朝間の対話ルートの確立する前の)15年前の状態に戻らざるを得ない」と、強い調子で日本政府を非難する抗議文が届いていたことが17日、明らかになった。
 抗議文は、北朝鮮に抑留中の第18富士山丸の船員2人の処遇に関し「船員たちも朝日人民の関係発展にかなうよう処理しようとした」と、日朝議連と北朝鮮側で話が進んでいた釈放交渉に言及するとともに「しかし、日本政府が今回事件を不当に処理した条件の下で、われわれもこれ以上、日本側に一方的寛容だけをもって対応できない旨を通告する」としている。

そしてその後、北朝鮮に抑留されている第18富士山丸の船長らに懲役20年の刑が下されたという情報がもたらされる。

第18富士山丸の船長らに懲役20年? 日朝議連筋

 超党派の国会議員でつくる日朝友好促進議員連盟(会長・久野忠治自民党代議士)の関係筋は16日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)側から、1983年末以来抑留中の第18富士山丸の紅粉勇(べにこ・いさむ)船長(56)ら2人の日本人について「スパイ罪で懲役20年の刑を言い渡されている」と日朝議連側に伝達があったことを明らかにした。同筋は、この伝達は北朝鮮小型船ズ・ダンの乗船員11人が台湾経由で韓国に亡命した今月8日以前にあったが、事実関係は確認できない、としている。
 外務省も「そういう話は以前からあるが、判決があった事実、刑が20年だった事実の双方について正式に確認できない」と話している。

そして、この後の元兵士の仮放免や大韓機爆破事件への制裁に対する報復で船長らの解放交渉は頓挫することとなる。また正式には教化労働刑15年であることも判明した。

 この船長と機関長の帰国は3年後の自民・社会党訪朝団(金丸訪朝団)の交渉まで待たなければならなかった。

 一方、亡命したズ・ダン号一行のほうにも後日談がある。先に引用した海上保安新聞にはこうある。

「亡命者はすぐ韓国に移送されたのですが、一年後(事件当時本庁で指揮を執った幹部が)所要でソウルに行った際、偶然会う機会がありました。破格の待遇を受けており、来てよかったと言っていました。『わかさ』の乗組員に朝鮮人参とイブ・サンローランのネクタイを託されました。」「『わかさ』に2週間以上いて、乗組員と親しくなり、暖かいもてなしに心から感謝していました。『わかさ』のことは一生忘れないだろうと話していました。」

だが、当の海保は残されたズ・ダン号の処理に苦労していた。最終的に解体されるまで2年の月日を要したという。その間、1週間に一度はアカ(ビルジ)抜きをし、陸揚げ後も保管料ばかりがかかっていた。海保の船舶工務官の調査で船としては無価値ということがわかっていたにもかかわらず、である。

そうした経緯を考えれば2007年の脱北船を「勝手に」処理したことは(法的にも)何ら非難されることではない。


しかし、まぁ、当時の騒ぎを見ていると、2007年や今回の様に直接韓国に移送することができることになったのは隔世の感がある。

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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

tag : 海上保安庁 脱北 北朝鮮 韓国 YS-11 PLH

2011-09-17 : 北朝鮮問題 : コメント : 0 : トラックバック : 0
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